香霖堂繁盛記
書いた人:U16
第59話 パチュリーの眼鏡
幻想郷と呼ばれる閉鎖された世界がある。
この世界とは見えない壁一枚を隔てた所にある異世界。
そこでは、人間だけでなく妖精や幽霊、吸血鬼に妖怪、更には宇宙人や死神、閻魔様に神様までもが存在していた。
その幻想郷の魔法の森と呼ばれる湿度の高い原生林の入り口に、ポツンと建てられた一件の道具屋。
掲げられている看板には香霖堂の文字。
店の中に入りきらないのか? 店の外にも様々な商品が乱雑に積み重ねられている。
ここ香霖堂は、幻想郷で唯一、外の世界の道具も、妖怪の道具も、冥界の道具も、魔法の道具も扱っている店であるが、外の世界の道具に関しては誰にも使い方が分からないため余り売れていないらしい。
というか、僅かに使用方法の分かった外の世界の道具は、全て店主である森近・霖之助が自分のコレクションに加えてしまうので、商売としては成り立っていない。
まあ、そんな感じで、ここ香霖堂は今日ものんびりと適当に商売していた。
●
「ん……」
薄暗く埃っぽい部屋の一角。
紅魔舘という、レミリア・スカーレットの居城にありながら、唯一の治外法権を与えられている地下図書館において、その部屋の主たる人物。パチュリー・ノーレッジが不機嫌そうに眉根を寄せた。
……疲れてるのかしら?
霞んで見える文字列に対し、そう判断したパチュリーは、目を閉じ瞼の上から眼球を押さえ揉んでみる。
如何に食事も睡眠も必要の無い種族といっても、疲労は溜まる。
流石に、ここ一週間ほど寝食を惜しんで本を読み続けていたのが堪えたようだ。
……少し、休んだ方が良いわね。
首を横に倒してみると、それだけで連続して関節が音を発てた事に我ながら呆れた笑みを零し、使い魔である小悪魔に一言を告げるとパチュリーは寝室に向かった。
●
――明けて翌日。
「むきゅ?」
一晩、睡眠を取ったにも関わらず、視力が回復していなかった事に小首を傾げるパチュリー。
……どういう事かしらね?
考えられる原因としては、何者かによる呪い。もしくは何らかの病気。……妖精の悪戯という線も考えられるわね。
不審に思い、その原因を解明すべく早速本で調べてみようとするのだが、肝心の視力が低下している為、作業が思うように進まない。
そんな感じで、一日中不機嫌そうに眉根を寄せている主人に対し、小悪魔が恐る恐る声を掛けてみた。
「あのー……、パチュリー様」
「何?」
本が読めないという事で、相当なストレスが溜まっていたのだろう。返答する彼女の声色は不機嫌そのものだ。
「ど、どうしたんですか? 物凄く機嫌が悪いみたいなんですけどー……」
その声が余りにも怯えていたので、パチュリーは一度深呼吸して気を落ち着かせると、事の顛末を語り出した。
「はぁ……、目が霞んで字がよく見えないですか。
――それって、普通に視力が低下しただけじゃ」
余りにも単純明快な解答故に、思いつきもしなかった。
暫し呆然としていたパチュリーだったが、原因が分かれば対応のしようもある。
……取り敢えず、
「永遠亭に行って確認してくるわ」
……あの薬師なら、薬も用意出来るかもしれないわね。
正直、こういった事で他人を頼るのは余り好ましいとは思えないが、こと視力の低下に至っては、自慢の図書館も役に立たない。
溜息混じりに告げつつ、パチュリーは早速永遠亭のある迷いの竹林に向かった。
●
「0.03。……暗い所で、本ばかり読んでるからよ」
訪れた永遠亭で、早速視力の検査をしてもらった所、そんな呆れ混じりの返答が返ってきた。
「そう。それで、視力を回復させる薬は作れるの?」
微塵も気にした様子もなく問い掛けるパチュリー。
対する永琳は小さく溜息を吐き、
「作れるわ。――とはいえ、視覚はとてもデリケートなものだから、検査を繰り返しながら微調整するとして……」
暫し考え、
「早くても一週間は掛かるわね」
「……一週間」
「勿論、回復したからといって今と同じような生活を続けていれば、また視力が低下してくるわ。
言っておくけど、また視力が落ちてきたら薬を飲めば良いとか考えないでちょうだい。
そんな事を繰り返していたら、耐性が出来てきて、薬も効果が無くなってくるわ。
そうなると、最終的には失明も考えられる。……それが嫌なら、もっと部屋を明るくして本を読むようにするとか心掛けなさい」
と永琳がアドバイスしてくれているのだが、既にパチュリーは聞いていない。
彼女にとって重要なのは、今後失明する可能性ではなく、一週間も本が読めないという事なのだ。
「もっと短くならないものかしら? 出来れば、30分位で」
「ならないわ。仮に出来たとしても、そんな粗悪品、副作用でもっと酷い目にあうわよ」
「むぅ……」
一週間も本が読めないというのがかなり辛いのか、真剣に考え始めるパチュリー。
そんな彼女に対して永琳は、正真正銘、掛け値無しの呆れた溜息を吐き出し、
「そんなに本が読みたいのなら、眼鏡でも掛けたらどう?」
そう提案した。
ハッキリ言って、僅か一週間程度の事に眼鏡を新調するなど非効率的過ぎる。
少しでも常識のある者ならば、その程度の判断は考えるまでもなかろう。
……もし、仮にそのような愚行を行う者が居るとするならば、余程の酔狂か馬鹿、または仕事熱心な者か――、
「……愛読狂よね」
「邪魔したわ」
手短に薬の件だけを頼み、永遠亭を後にするパチュリー。
彼女が何処へ向かったかなど尋ねずとも分かる。
パチュリーと入れ違いに部屋へとやって来た鈴仙が目を白黒させながら、
「一体、何があったんですか? 師匠。
さっき紅魔舘の魔女が、物凄い勢いで魔法の森の方へ飛んで行ったんですけど」
曰く、あのブン屋よりも速かったのではないかという程の速度だったらしい。
それを聞いた永琳は、本日何度目かになる溜息を吐くと、紙に筆を走らせて処方箋を書きながら、
「趣味人によくあるタイプの病気よ。死んでも治らないだろうから、気にしなくて良いわ」
言って、書き終えた処方箋を鈴仙に手渡し、
「じゃあ鈴仙。この薬草を用意しておいて頂戴」
処方箋を受け取った鈴仙は、紙に書かれた薬草や鉱石の名称を小さく呟いて、記憶の中にある在庫の量と示し合わせて一度頷き、分かりましたと返事を返すと診療室を後にした。
●
幻想郷で眼鏡を取り扱っている店は多くない。……というか、二件しかない。
一件は人里で最大の道具屋、霧雨道具店。
こちらは完全受注製なので、早くても一週間。下手をすれば数ヶ月以上掛かる可能性もある。
というか、幻想郷の文化レベルでは、レンズの研磨等は全て手作業で行われている為、時間が掛かってしまうのも仕方のない話だ。
正直、完成を待っていては、薬の方が先に出来上がってしまう。
ハッキリ言って、それでは意味が無い。
もう一件は魔法の森の入り口に建つ古道具屋、香霖堂。
こちらは、無縁塚などに落ちている外の世界の道具を拾ってきている為、幾つかの数はある。
……問題は、拾い物の眼鏡の度やサイズが自分に合うかどうか、という事だ。
その二つを踏まえた上で、パチュリーが選択したのは……、当然、香霖堂だった。
「まあ、おおよその事情は分かった」
一通りの説明をパチュリーから早口で受けた霖之助はカウンター席から立ち上がり、棚に置かれている眼鏡を全て持って戻って来た。
「今、ウチの店にある眼鏡は、これで全部だ。
合う物が無かった場合は、素直に人里の方へ行ってくれ。……まぁ、霧雨道具店の紹介状くらいは書かせてもらうが」
「えぇ、それで充分よ」
とはいうものの、そんなに簡単に諦めるつもりも無い。
なにしろ一週間も読書が出来ないなど、彼女にしてみれば麻薬常習者が麻薬を断っているに等しい苦痛だ。
一日読めなかった今でも禁断症状で、手が震えているというのに。
「じゃあ、まずはこれから試してみようか」
そう言って、霖之助が最初の一つを手に取った。
鼻眼鏡と呼ばれるテンプル……、耳に引っ掛けるつるが無く、鼻をバネで挟むような仕組みの眼鏡だ。
「……ぼやけて見えるわ。それに鼻で呼吸がしにくいし」
喘息を患っているパチュリーにとってそれは致命的といえる。
「なら、これはどうだい?」
次に霖之助が渡したのはセルフレームのファッショングラスだが、それの用途に気付いた霖之助がパチュリーに渡さず、そのまま非採用の方に置いてしまった。
「……どうしたの?」
その行為に、不審げに問い掛けるパチュリー。
対する霖之助は小さく肩を竦め、
「伊達眼鏡だったからね。意味が無い」
「そう。なら、次を頂戴」
促され、手渡したのはべっ甲縁の眼鏡。
掛けてみると、度があっていないのか、目眩がするような感じがする。
「こいつは老眼鏡だな。近視には合わないと思うが……」
「えぇ、余計酷く感じたわ」
そんな感じで次々と眼鏡を試してみるも、一致するような物がなく、最後の一つも不発に終わってしまった。
「残念だが、品切れだ。悪いが霧雨道具店の方を……」
当たってくれ。と言おうとした霖之助だったが、自分の方に伸ばされたパチュリーの手によって、思わず言葉を飲み込んでしまう。
「なにを……」
「まだ、ここに一つ眼鏡が残っているわ」
僅かに彷徨いつつも、パチュリーが手に取ったのは霖之助が身につけている眼鏡。
「これは売り物じゃないよ」
「度が合っていたら、貸してくれるだけで良いわ」
そう言うやいなや、素早く霖之助の顔から眼鏡を奪い取っていってしまった。
「まったく……」
一応、予備の眼鏡がある為、肩を竦めるに留まった霖之助が見ている中、パチュリーが眼鏡を装着する。
……結果、
「――駄目ね。どうも焦点がボヤけるような感じがするわ。……それにサイズがブカブカで、すぐに鼻からずり落ちるし」
「まぁ、そんなものだろうね」
使えないと結論すれば用はない。素直に返ってきた眼鏡を受け取ると、手慣れた仕草でレンズを拭い、それを装着する霖之助。
結局、自分に合う眼鏡が見つからず、俯いてしまったパチュリー。
彼女ほどでは無いにしても、霖之助もかなりの読書家だ。
一週間も本が読めないというのがどれ程の苦痛なのか共感する事が出来る。
その為、同好の士として落ち込む彼女を慰めてやろうと、霖之助が言葉を模索していると、それまで俯いていたパチュリーが突然顔を上げた。
「良い事を思いついたわ、森近」
「君達がそんな満面の笑みで言うときは、大概、僕にとってロクでも無い事と相場が決まっているんだがね」
露骨に嫌そうな顔をする霖之助を無視してパチュリーが口を開く。
「貴方が私に、本の内容を朗読してくれればいいのよ」
「……は? いや、待ってくれ。
それなら、別に僕でなくても、君には使い魔の彼女が居るじゃないか」
「小悪魔には、図書館の仕事があるから駄目よ。貴方なら……、どうせ客なんて滅多に来ないのだから構わないでしょう」
言うと、場所を霖之助の傍らに移し、腰を下ろす。……のだが、視界がボヤけている為、少し目測を誤ってしまった。
「……随分と座り心地の良い椅子ね」
程良い弾力のクッションを確かめる為、二、三度軽く身体を上下させて座り心地を確かめてみる。
……ついでに、この椅子も買っていこうかしら?
「お褒めに与り光栄だがね、そこは椅子じゃない」
一息。
ヤレヤレと溜息を吐き出し、
「それは僕の太股だ。取り敢えず降りてくれ」
頭上から声が聞こえてくる所をみると、どうやら彼の言っている事は正しいようだ。……が、パチュリーは大して気にする事なく、それどころか背中を霖之助に預け、
「さあ、良いわよ。ジャンルは貴方に任せるわ。読んで聞かせて頂戴」
もう禁断症状が限界まで来ているのだ。一刻の猶予も許されない。
それを敏感に感じ取った霖之助は、諦めて彼女が来店するまで読んでいた本を手繰り寄せ、
「異世界の英雄譚だが構わないね?」
「えぇ、早く読んで頂戴」
急かすパチュリーが幼い頃の魔理沙と被り、思わず微笑ましくなって口元に笑みを浮かべながら、霖之助は翻訳魔法を発動させる。
外国語の翻訳程度ならば、魔法に頼らずとも自力で可能な霖之助ではあるが、流石に異世界の文字はこうでもしないと読むことが出来ない。
「“イーヴァルディの勇者”……」
心地良い空間と、良く耳に通る声に身を委ね、パチュリーは1日半ぶりとなる至福を楽しんだ。