香霖堂繁盛記
書いた人:U16
第18話 夢の中の月
幻想郷と呼ばれる閉鎖された世界がある。
この世界とは見えない壁一枚を隔てた所にある異世界。
そこでは、人間だけでなく妖精や幽霊、吸血鬼に妖怪、更には宇宙人や死神、閻魔様に神様までもが存在していた。
その幻想郷の魔法の森と呼ばれる湿度の高い原生林の入り口に、ポツンと建てられた一件の道具屋。
掲げられている看板には香霖堂の文字。
店の中に入りきらないのか? 店の外にも様々な商品が乱雑に積み重ねられている。
ここ香霖堂は、幻想郷で唯一、外の世界の道具も、妖怪の道具も、冥界の道具も、魔法の道具も扱っている店であるが、外の世界の道具に関しては誰にも使い方が分からないため余り売れていないらしい。
というか、僅かに使用方法の分かった外の世界の道具は、全て店主である森近・霖之助が自分のコレクションに加えてしまうので、商売としては成り立っていない。
まあ、そんな感じで、ここ香霖堂は今日ものんびりと適当に商売していた。
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その日、霖之助は一冊の本を読んでいた
月に関して書かれた本だ。天体的、宗教的、神話的、あらゆる側面から見た月について書かれている。
本を読み終えた霖之助は考察する。……外の世界の月と幻想郷の月は別物なのか? と。
一般に幻想郷における月というのは、月の都の事を示す。
稗田・阿求著、幻想郷縁起によれば、月の都とは遙か昔から月の裏側に存在するという大都市であり、かつての幻想月面戦争騒動で、あの八雲・紫率いる妖怪の大群が惨敗したという歴史がある程に、当時から優れた文明を有していた事が分かる。
……もっとも、その惨敗に関しては本当にそれほどの実力差があったとは僕は思わない。
あの一件で、彼女に逆らっていた力持つ妖怪の殆どが月の兵力の前に倒れたという。
もし、幻想月面戦争騒動が、自分に逆らう妖怪達を始末する為に彼女が起こした異変だったとすれば?
根拠として、あの騒動には西行寺の亡霊嬢や伊吹・萃香など、彼女と親しい妖怪達が参加していなかった事が挙げられるだろう。
ついでに言っておくと、あの戦に参加して無事に帰ってきた妖怪は、彼女の他には風見・幽香だけである。
逆に誘われていながらも、紫の言葉に怪しさを感じ取り乗らなかったのが因幡・てゐだ。
月の民の猛攻からアッサリと生き延びた純粋な強さを持つ幽香と、危険を察知してそれを回避出来るだけのしたたかさを持ったてゐ。
この時以来、二人の名は紫の要注意リストのトップページに刻まれる事となった。
とはいえ、この二人以外の邪魔者を己の手を汚さず始末した事から、如何に八雲・紫が力が強いだけではなく、狡猾で恐ろしい妖怪なのかが伺い知れる。
まあ、それは今はどうでもいい。今、問題なのは月の都についてだ。
僕の知る月の都に関する情報は、この本には一切記載されていなかった。
「……いや、この場合月の都がある場所とは地上における幻想郷のような物で、外の世界の人間では辿り着けないという事か」
月の都が存在するのは、月の裏側と呼ばれているが、この場合の裏側とは結界の内側という意味である。
結界の内側、つまり裏側の月は穢れの無い海と豊かな都の美しい世界であるが、外側、つまり表側は荒涼とした生命の無い星であり、現在霖之助が想いを寄せているは、紛れも無く後者の方であった。
とはいえ、流石に長時間本を読んでいると半人半妖といえども疲れを覚える。
霖之助は大きく伸びをして欠伸を噛み殺しつつも、もう少しだけ、もう少しだけ、とページを捲っている内に何時の間にか睡魔に誘われ微睡んでいた。
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気が付けばそこは静寂の世界だった。
荒れた岩肌と砂。空を見れば夜空よりもなお暗い闇だけが広がる世界。
「……ここは?」
周囲を見渡せど、そこは何処までも代わり映えのしない世界だ。……否、地平線の彼方。空の遙か向こうから昇る巨大な天体があった。
「……あれは」
本で見た事がある。
「――地球」
その大きさ、そして黒をバックに映える蒼と白と緑の星を前に息をのむ。
……まさか、ここは、
「月……?」
……確かに、あの本を読みながら、月に行ってみたいとは思ったが、まさか本当に来れるとは思ってもみなかった。
以前に一度だけ、外の世界に想いを馳せる事で精神だけが結界を越えた事があったが、まさか夢見心地に思った程度で月にまで来れるとは……。
「ひょっとして、肉体と精神の境が弱くなってきてるのかな? 一度、紫か、八意女医にでも看てもらった方が良いかもしれないな」
誰にとはなく呟いた瞬間だ。
「こんな所に、お客様だなんて随分と珍しい」
背後から年若い女性の声が聞こえた。
極力、相手を刺激しないよう、ゆっくりとした動作で振り向く。
そこに居たのは一人の女性だ。
白のブラウスに、黒い左の片吊りスカート。やや垂れ目がちの瞳に、長く伸ばされた亜麻色の髪は緩やかなウェーブが掛かっている。
「……君は?」
警戒らしい警戒も見せず問う霖之助に対し、少女は人好きのする愛想の良い笑みを浮かべ、
「綿月・豊姫と申します」
と名乗って礼儀正しく会釈する。
つられるように霖之助も僅かに姿勢を正し、
「これはご丁寧にどうも……。僕は森近・霖之助と言う。香霖堂というしがない古道具屋を営んでいるんだが……。
まず、こちらから名乗るのが礼儀だったね」
「お気になさらないでくれて結構ですよ」
口元を隠して上品な笑みを見せるが、その内実は違う。
豊姫の仕事は月の都への侵入者の撃退。今、彼女は霖之助をどう対処するか思案している最中だ。
……さて、どうしたものかしらね?
考えるまでもない。答えは二つ……。力ずくで送り返すか? この場で殺すか? だ。
この月の世界を支配する月夜見が……、否、月の民達がもっとも恐れる事が地上の人間が月に来る事だからである。
1500年ほど昔に一度だけ、水江・浦嶋子という人間を密かに匿った事があるが、今の自分はかつてほど優しくは無い。
……取り敢えず、話を聞いてみて悪意があるようなら消せばいいかしら?
どこら辺から、切り崩してみようかしら? と考えていると、霖之助の方から話しかけてきた。
「ところで、こんな所に居るという事は、君は月人だね?」
その言葉を聞いて、豊姫は警戒レベルを一つ上げる。
かつての迷い人、浦嶋子は、ここが海の向こうの国、蓬莱国であると勘違いしていた為、海底に存在する国、竜宮城であると嘘の情報を教えて誤魔化したのだが、この男は違う。
ここが月であると理解し、なおかつ月人の存在まで知っている。
豊姫は警戒している事を悟られぬよう笑みを崩さず、
「その通りだけど、月人に何か用でもあるのかしら?」
「月人に、というかここが月のどこら辺なのか? と思ってね」
質問の意図がいまいち分からないが、その程度なら教えてやってもかまわないだろう。
「ここは、静かの海と呼ばれる場所よ」
この地に何か特別なものがあるわけでもない。結界の表と裏を繋げるのは私の能力があれば何処でも可能だ。ここでなければならないというわけではないので、現在地を知られた所で月の都への侵略拠点にはならない。
対する霖之助は頭の中に先程まで読んでいた本の地図を思い出し、
「地球が見える事といい、やはりここは月の表側か」
一人納得した霖之助は、膝を折ってその場にしゃがみ込むと足下に落ちていた拳大の石を二つ三つ拾い上げ、
「これは記念に貰っていって良いかな?」
「別に構わないけど、ただの石よ? 何に使うの?」
意味が分からないと不思議そうに問いかける豊姫に対し、霖之助はきわめて真面目な表情で、
「一つは僕の趣味として、後の二つは売り物だよ。
珍しい物好きな常連さんと、月のイルメナイトを欲しているお客さんが居るからね」
……この間の治療費もまだ払ってなかったから(第13話参照)、これでチャラにしてもらおう。
内心で、そんな事を考えている霖之助を前に豊姫は呆れた表情で、
「……変わった人ね。月の都を目の前にしておいて、そこの道具ではなく何の価値も無い石ころを求めるなんて」
言われ、霖之助は暫く考え、
「その手があったか」
一度手を拍つ霖之助に対し、豊姫は内心で「……やはり、地上人は俗物か」と失望の溜息を吐く。
「綿月さんだったね。もしよければ、月の道具を分けて貰えないかな?
出来れば、夏場でも涼しく快適に過ごせるような道具や、店の商品を盗人から守れるような防犯装置の類とかがあるとありがたいんだが」
瞳を輝かせながら告げる霖之助に、思わず豊姫の思考が停止する。
「……え? いや、ちょっと待ってくださるかしら? 普通は武器や兵器などを求めるのではなくて?」
例え月の都を侵略するつもりが無かったとしても、地上の物とは比べものにならない程に優れた月の武装を持ち帰れば、一国の支配くらいならば可能な筈だ。
それをこの男は、そんな物には目もくれず、地球にもあるような日用品をくれという。
今度は逆に霖之助が不思議なものを見るような眼差しで豊姫を見つめ、
「そんな物が日々の生活で役に立つのかい?」
それに、そんな物騒な物に頼らず、わざわざ危険を冒さなくとも、天下を統べる為の道具は既に彼の手中にある。――後は、それに認められるだけだ。
勿論、後半は口に出すような真似はしない。
「そんなつまらない物なんかより、日常を快適に過ごせる道具の方が、余程貴重だよ」
言い切る霖之助を、豊姫は唖然とした表情で見つめる。
「ところで、道具の代価だか、今は手持ちが無くてね。精々が労働力程度しか提供出来ないんだが、かまわないかな?」
対する豊姫は、今度こそ耐えきれず吹き出した。
「……ぷ、あは、あははははは」
もはや、体裁を取り繕う事無く笑う。対する霖之助としては、何故笑われているのか? 分からないという表情で、可笑しそうに笑い続ける豊姫を見続ける。
一頻り笑って満足したのか? それまでと違い、豊姫は親しみを込めた声色で、
「貴方、本当に変わってるわ」
目尻に溜まった涙を拭いながら、一つの事を決意する。
「いいわ。付いて来て、月の都を案内してあげる」
もし、彼が望むのであれば、月の都に住まわせてみるのも面白いかもしれない。
豊姫が踵を返し、視線を外した一瞬の隙、
霖之助の背後の空間が裂ける。
そこから現れたのは無数の手だ。
それらが霖之助の身体を拘束し、隙間の中に引きずり込む。
「向こうに着いたら妹を紹介するわ。それから食事にしましょうか。――何か食べられない物とかはある……?」
次に豊姫が振り向いた時には、霖之助の姿はどこにもなかった。
●
「こんばんは」
目を覚ました霖之助がまず見たのは間近に迫った紫の顔だった。
彼女は霖之助が驚いて身を引くのを確認して、口元を扇子で隠しつつ小さな笑みを浮かべる。
「こんな所で寝ていると、風邪をひいてしまいますよ?」
ようやく状況を理解した霖之助は小さく咳払いして体裁を取り繕うと、
「大丈夫だよ。僕は病気にはならないから。
――それで、本日はどのような御用件で?」
問いかけると、紫は扇子を閉じながら、
「暇潰しに立ち寄ってみただけなのだけど、何か新しい品でも入荷していないかしら?」
「特には無いね。……最近は無縁塚にも出掛けていないし」
「あら残念。ではまた出直す事に致しますわ」
告げると同時、足下に隙間を開いてその中に身を落とした。
紫が去り、一人残された霖之助は、先程までの出来事を回想する。
「……夢、だったのか?」
否、懐に手を入れてみれば、そこには月の石が確かにある。
霖之助はそれをカウンターの上に置き、手持ちぶさたに弄りながら、
「月の道具を入荷しそこねてしまったな」
……まあ、いい。またいつか月に跳べる時もあるだろう。
霖之助の月に対する後悔など、その程度のものだ。
差し当たって、今の問題といえば、
「この石を、如何に高値で売るかだな」
呟き、すっかり冷めてしまったお茶を一気に飲み干した。
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同時刻。――マヨヒガ。
……やっぱり、月の民は危険ね。
正直、後少し霖之助を連れ戻すのが遅れていたら、彼をあのまま月に連れ去られていたかもしれない。
……あの懸案を実行に移すのも頃合いかしらね?
かつてより暖めていた計画。
「――藍! ちょっと来てちょうだい!!」
声を張り上げると、台所の方から割烹着姿の式が姿を現した。
「どうしました? 紫様」
夕食の仕込みを行っていたのだろうか? 手にはお玉が握られている。
「あの計画を実行に移すわ。用意してちょうだい」
「あの計画と仰いますと?」
小首を傾げ問いかける藍に対し、紫は唇の端に不敵な笑みを浮かべ、
「勿論、第二次月面戦争よ」
この翌日、霊夢に稽古をつけると言って紫は博麗神社を訪れた。